2015年6月20日土曜日

世界難民の日



衝撃は無意識に残るけれども、思いやりや善意、想像力はどうしても意識的なことを重ねていかないと私達の行動基準まで残ってはいかない。

テロや人質、殺害、様々な映像や鮮やかに可視化されたものが蔓延しているこの現代において、私達の無意識の中には本来知り得ないものに対する否定的なイメージが瞬時植え付けられていく。


日本で生まれ、日本で育ってきた私はたくさんの音楽と情報を日本の中で浴びてきて、中学生あたりのころから漠然と世界に、日本の外に想いを馳せていた。ここで音楽は本当にたくさんのことを教えてくれた。何でロックは社会の中にいる自分自身を嘆くのか、音で表現する人達は何故世界の貧困やエイズ、難民問題に関心をもってそれらを奏でるのか。そこに私のやるべきことがある、私はそこで何かをするんだと、自分の近くではない遠くにただ自分の何かを求めて、「助けが必要な誰か」を頭でイメージしていた。


そんな中、私がまた行きついた現実は日本の中に難民がいること、難民になることを希望して日本に来たはずなのに日本の入国管理センターに収容されている人達がいること。そしてその大きな入国管理センターが私の地元にあるということ。

私の中でその事実全てが衝撃となって無意識の中に入っていった。その全ては負のイメージだった。思いやりでも善意でもなく、そのような事実が私の認識する世界の中にあることが許せなかったのかもしれない。


実際に難民の人やその家族との関わりが深まるにつれ、彼らは私が持っていた衝撃的な事実の一部なんかじゃなくて、ただただ私と同じ一人ひとりの人間だと思わずにはいられなかった。

私達と同じように何かから衝撃を受けたり、感動したり、勉強したり、恋をしたり、生活を営み、生きている。

ただ一点、私達と違うところは、私達が想像もできないような追われる恐怖、武力や制圧の中で生きてきた体験。でもだからといって、私達と彼らの生きる今の価値が違うわけではない。




今でも、善意や思いやり、そして自分以外の他者に想いをはせる想像力を、どうやったらみんなが持つことができるのか、留学して環境を変えて色々なことを考えてみたけれども、今でもどうすればいいのかわかってはいない。

だけど、そんな誰かの為に何か行動として自分の人生に織り込んでいくことを、衝撃的なものとして返還することができるのなら、忘れることができないような、あの残虐非道な映像や震えるようなニュースを超えるくらいの優しさの衝撃を人の中に入りこませていくことができるのなら、もっと誰もが行動の中に優しさを含ませることができて、もっともっと誰もが生きやすくなるんじゃないかって本気で思っている。




6月20日世界難民の日というものがあって、その日に、その日じゃなくても優しさや世界中の問題やそこで生きる人々に想いをよせる想像力をを様々な形で広げようとしている人達がたくさんいる。災害も、戦争も、恐怖、孤独、諦めや絶望も、一人ひとりの中に溢れているけども、それと同じくらい私達は喜ぶことも、幸せを見出すこともできる。


私は本当に幸せ者で、同じように気持ちや目標を共有できる人達に囲まれている。それは日本に帰っても、世界のどこにいても。留学して、このことを強く確信できた。

多分これが留学中最後のブログになるかな。もうすぐ帰国です。


音楽:音沙汰/SUPER GOOD