2016年1月25日月曜日

信じること、変わること





















何か一つを信じるということは、その一つ以外のものを信じなくなることかもしれない。

そして時が経つにつれて、信じているものそれ自体の中身が変化しているにも関わらず、信じると決断した時の在り方をそれ自体に強要してしまう。

それが人であれ、ものであれ、思想であれ、信じると決断した時のまま思い描き、それらを時の流れから切り離してしまう。

人が決断した時、その力は大きい。
目に見えようが見えまいが、周りの作用を変えていく。
地球上の人々が次々と決断をしていく中で、信じるものを決めていく中で、その一人ひとりの決断によって時代は常に変わっていく。

そして、信じることによって決断した彼らは、いつしか決断しない者、変わろうとしないものを咎めるようになる。

決断した者は構造の中で努力をし、強者として生きる。そして弱者と強者の構造だけが残る。
弱者と言われた者を守るためだった決断さえも、弱者に変化を強要する行為に移り変わってしまう。

信じていたものも、何か一つを信じている自分自身も、常に移り変わっているはずなのに、変わっていないと思い続けてしまう。


社会における価値観を変えることは、本気で「変えよう」という強い意志と決断がなくては誰の心も行動も動かせないのだと思う。だけど、その時何かを見失うんじゃないかな。




こんなことを、去年の日記に書き綴っていた。パリのテロ襲撃の後くらいに。
やっぱり今でも、人は決断したときが一番強いと思っている。
だけどあまりにも大きな社会的な衝撃が走ると、決断よりも先に大きなものに飲まれてしまう、とは思う。