2014年12月26日金曜日

パリは、美しいもので溢れている






お金がなくとも、美しいものに触れる機会はあるようだ。


パリに行ってきた。その際にオペラ・バスティーユにてプッチーニ作曲のオペラ「ラ・ボエーム(La Boheme)」を鑑賞した。オペラ・バスティーユでは会場オープン2、3時間前に並んでいれば5ユーロで4階の立ち見席のチケットを手に入れられる。ステージの全体を見ることはできないような位置ではあるが。

ちなみに、パリでは18歳未満・EU圏内の住民権を持つ25歳以下・失業者等のある条件を満たしている場合に入場料が無料という美術館は珍しくない。あのルーブル美術館もそうだ。




この日、私の中でオペラのイメージは変わった。与える側は相当な努力と表現へのこだわり、熱を持って空間を創っているのであり、受ける側もそれと同じだけ外見やそれ相応の富を持っていなければならないと思っていた。しかし私は5ユーロを払い、ジーンズにTシャツ姿で予約なしであの空間にいた。ステージの正面から見る人達とは全く異なる斜め上から、ステージを軽く見下ろしつつあの空間を感じた。


着飾ることや社会的地位を求める人も、そんなものには興味のない人も、誰しもが同じようにそれぞれの人生を持っている。それぞれが熱を注ぐ場所が違うだけ。


地位を大切にする人はそれらに価値を見出し、それ自体が自分や自分にとって大切なものを守る方法だと感じているのかもしれない。それらはどうでもいいと思う人達だって、自分のいる場所に誇りをもって生きて、そして大切なものを守ることができる。


私は裕福な人を差別していたのかもしれない。社会的弱者が差別されないようにと思っていただけなはずなのに、いつの間にか富を持つ人をただ批判したり軽視するようになっていたのかもしれない。
本質的な問題やその原因を見るべきなのに、いつの間にか私もたくさんの人を差別していたかもしれない。



あのオペラ座の中では、どんな席でも、何をまとっていても、全ての人が同じ空間の中で音を感じていた。そこには何の差もなかった。たとえ見えなくても聞こえ、感じていた。

与える側が開こうと思えば、芸術は誰しもに届くのかもしれない。






それに、パリは美しいもので溢れていた。

街並みや文化遺産の輝きは、国や人々に愛されているからこそ滲み出ていて、洗練されているように感じた。それらの周りには一時限りの観光客が集まる。私もそうだ。そして、その輝きと訪れる人々の周りは常に富に包まれており、その富の周りには物乞いやスリ、持たざるものたちが集まる。

輝かしいものが密集すればするほど、その対照となるものも同じだけ密集していく。



私はあのパリの地下鉄の、輝く街並みの下の雰囲気が気に入った。
トレンドをまとう人もいれば、観光のためか動きやすくラフな服でキョロキョロ移動する人、駅のホームでダンボールを敷いてすやすや眠っている人、お金を求める人、楽器を弾く人、そして地下鉄内の壁に描かれた大量のグラフィティ。
パリは、輝かしさ、対局としての汚さ、そしてその中間、パッと見るとそう区別できるのだろうが、それぞれが様々な色をまとって、誰もマジョリティではない、誰もマイノリティではない、住んでいようが、ただ訪れるだけであろうが、物質的なものを持っていようがいまいが、誰しもが独りの、一人の、人間だった。


そこでは何も輝いていない。何も汚くない。ただ、人生をまとう姿が、それらの全てが美しかったように思う。



0 件のコメント:

コメントを投稿