2015年1月1日木曜日

工事中









ドイツ、デュッセンドルフ。


ここは、国際的な商業の中心でもあり街を歩いているとオフィスがたくさん並んでいる。しかし住宅街や旧市街、自然、川もたくさんあり東京23区をぎゅっと小さくしたような街のように見える。そして現代美術で著名な街。ヨーゼフボイスの出身校でもある国際芸術アカデミーもある。

現代芸術に焦点をあてた美術館がたくさんあった。インスタレーションを中心として、その場所にその時に行かなければ感じることのできないような表現をたくさん感じることができた。




デュッセンドルフ街中はたくさんの工事中の過程が見えた。
日本では年末に公共事業としての工事が増えるなんて噂もあるけれど、デュッセンドルフがどうなのかは分からない。むしろ工事中のものが年末休暇で止まっているようだった。


ゆっくりすぎて見えなくても、建物も人もこの世にあるものはみな変化している。完成したと誰かが言っても、その瞬間から新しい空気にさらされ、いくつもの季節を、時代を過ごしていく。工事中の建物は、見えないその変化をよく気づかせてくれる。現代美術のインスタレーションのように、アーティストの手を離れ展示された瞬間から、人が訪れる瞬間ごとに変わっていくことを予め認めたような表現が好きだ。




完璧なんていうものは芸術にも、人の人生にも、客観的に見たらどんなものにも存在しない。人の気持ちの中で完璧だと思ったものだけが完璧であり、そう思わなくなったらもうその気持ちの中にも完璧は存在しない。





西欧でいう「苦情をしっかりいう」ことが重要。と、本当にそうなのかとずっと疑問を持ちながら過ごしていた。ちょっとしたことで自分から謝って、引き下がってはいけないと。


美術館の中で荷物を預けようとしたら壊れたロッカーにお金を入れてしまい、「このロッカー使えないんですけど、お金返ってきます?」と言うと、自分でしっかり確認してから使わなきゃ!で、どの番号なの!?!?!?みたいなかんじでものすっごい勢いで怒られたんだけど、とっさに荷物を出してしまって自分でもどの番号だかわからなくなってしまった。しかも壊れたロッカーだらけだったもので。「どの番号だか分かんなきゃ出せないのよ!ホラホラどれよ!?」と、ロッカーバンバン開けたり閉めたりしながら言われビビりまくる私。

言い返す度胸もないので「もういいです私のせいなんでごめんなさい」とそそくさとお金は諦めて出て行ったのだが、結局大きい荷物は預けなきゃいけないからもう一回そこに行かなきゃいけなかった(笑)どうしてもロッカーの使い方分からないし壊れたロッカーばっかりだし、私に怒った人にもう一度「どうやってこのロッカー使うんですか、、、、、?」とショボショボしぶしぶ聞いたら、「ほらさっきのお金!はい!」って渡してくれました。何だ物凄く優しい、、?私のほうが申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。


苦情や文句を言うことよりも、しっかり自分の状況を伝えてお互いでどうするか決めるということが重要なのかもしれないと感じた。苦情という言い方は正しくないかもしれない。
次はしっかりロッカーが壊れていないかどうか確認しよう。いやでもあそこのロッカーの半分くらいは壊れていたように思えたが、、。



壊れたものも、決められたことも全て認めた上で使う者管理する者同士がお互いに問題を共有し合ったうえで話し合うことが大切なんだと感じたし、それは西欧に限らずどこだって一緒だと思う。ルールだってなんだって結局そうやって人が加わって常に臨機応変に使われていく。



決められた未来も、過去もない。ただそこに今の自分自身があるだけで、その自分自身も誰かに、何かに影響されながら常に移り変わっている。そんなことを感じた小さな旅だった。



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