2015年1月13日火曜日

叫び






Otep / Warhead


人はどうして叫ぶのだろう。何のために叫ぶのだろう。


アイドルを見た時の黄色い声や地鳴りのような声、あれきっと出ちゃうんだよね。
デスヴォイスで叫ぶヴォーカル、叫んで言葉以上に伝えようとしている。
酔っぱらって声がどんどん大きくなって終いには、素で何かを言いたくなって声を出し切っている。
ライブで曲が始まったり終わる瞬間、もう、これも出ちゃうんだろうね。
デモ行進するときの声、主張をすればするほど大きくなる。
何かを決意した時、自分の終わりを知ったとき、叫んで感情を出し切ってから行動したり。




人間の一番見えないところを聞いているみたいで、聞いているだけで震える。


きっとみんな普段の生活では出さない、出す必要もないし、出しても変な目でみられてしまう。

逆に叫ぶとき、それは普段の生活ではないし、出す必要があって、変な目で見られても構わない時。




もっと、叫んでもいい、叫んだら誰かがあたたかい目で振り向いてくれるような世界だったらどうだろう。そうすれば誰も叫ぶほど苦しくなったり、喜びも悲しみも感情を叫び、そこにだけに押し込まなくてもいいのに。


叫ぶ時には準備なんて誰もしていない、もうどうしもようもなくなって叫んでいる。
もっと柔らかく暖かく普段から、叫びと同じくらいの感情を出せる世界はどんなところだろう。
そこは全然冷たい世界じゃない気がする。


画面越しにいる人ではなくて、もっと近くの人に普段から好きと言えていたなら。
口ずさんだ曲を隣にいる人も歌ってくれたなら。
素敵な音楽を聴いたときにその気持ちを聞いてくれる人が、
ちょっとした冗談でも悩みでも、笑って聞いてくれるひとが、
社会の中でおかしいと思ったことを、一緒に考えてくれる人が、
傷付いて辛くてどうしようもない時に話しをきいてくれる人が、傍にいたなら。




本当はもっと、もっと時代の中の人の感情は軽くて柔らかくて、構造なんて後からついてきたもの。

なのに、構造に押し込まれて感情が極限まで達しないと出せないなんて、なんて冷たい世界だろう。その叫びの間に何があったのか見ようとしないなんて、なんて想像力のない世界だろう。


2015年1月8日木曜日

怒りの矛先



http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150108/k10014527301000.html


「仏全体への攻撃だ」


そう言えるのかもしれない。フランスが大切にする民主主義や自由表現への対抗と言えるのかもしれない。

しかし、その攻撃の抗議としての対象が、フランスやヨーロッパに住むイスラム教の人達にならないように願う。



極右政党フランス国民戦線は、テロリストや殺人犯に対する死刑の復活を求める他、移民の排斥を主な主張している。フランスに限ったことではないが、このような極右政党は西欧で力を伸ばしていて、オランダ・スウェーデン・スイス・イタリアでは国内、欧州議会で議席を伸ばしている。


昨日今日でフランス国内で市民のデモが盛んに行われているようだが、一時的な熱のように可視化されなくとも、今後選挙における国民の極右政党への支持は水面下で伸びていく可能性は上がっていくかもしれない。


テロリストとイスラム系移民は直接的に結び付けて認識されるべきものではない。


#JeSuisCharlie このハッシュタグでtwitterを見ていると、様々な呟きが次から次へと流れてくる。

「表現の自由を支持する」「こんな風刺画を描くべきではない」


そして




「この事件について謝りたい。なぜなら私はイスラム教だから」


これだけに限らず、#NotInMyName のハッシュタグを付け、イスラム教の名のもとで今回のテロを批判する声がたくさんあがっている。

2週間前に私が訪れたあの大好きな場所パリに想いを寄せながらも、私は何もできないことを知ったし、今、パリに、そして西欧、世界に生きるイスラム教の人々が恨まれ排斥されないように。そしてその感情がまたどこかで誰かを苦しめないように。そう願っている。



今何もできない自分を悲観せず、するべき時に冷静に行動できる人間になりたいと思う。



2015年1月1日木曜日

工事中









ドイツ、デュッセンドルフ。


ここは、国際的な商業の中心でもあり街を歩いているとオフィスがたくさん並んでいる。しかし住宅街や旧市街、自然、川もたくさんあり東京23区をぎゅっと小さくしたような街のように見える。そして現代美術で著名な街。ヨーゼフボイスの出身校でもある国際芸術アカデミーもある。

現代芸術に焦点をあてた美術館がたくさんあった。インスタレーションを中心として、その場所にその時に行かなければ感じることのできないような表現をたくさん感じることができた。




デュッセンドルフ街中はたくさんの工事中の過程が見えた。
日本では年末に公共事業としての工事が増えるなんて噂もあるけれど、デュッセンドルフがどうなのかは分からない。むしろ工事中のものが年末休暇で止まっているようだった。


ゆっくりすぎて見えなくても、建物も人もこの世にあるものはみな変化している。完成したと誰かが言っても、その瞬間から新しい空気にさらされ、いくつもの季節を、時代を過ごしていく。工事中の建物は、見えないその変化をよく気づかせてくれる。現代美術のインスタレーションのように、アーティストの手を離れ展示された瞬間から、人が訪れる瞬間ごとに変わっていくことを予め認めたような表現が好きだ。




完璧なんていうものは芸術にも、人の人生にも、客観的に見たらどんなものにも存在しない。人の気持ちの中で完璧だと思ったものだけが完璧であり、そう思わなくなったらもうその気持ちの中にも完璧は存在しない。





西欧でいう「苦情をしっかりいう」ことが重要。と、本当にそうなのかとずっと疑問を持ちながら過ごしていた。ちょっとしたことで自分から謝って、引き下がってはいけないと。


美術館の中で荷物を預けようとしたら壊れたロッカーにお金を入れてしまい、「このロッカー使えないんですけど、お金返ってきます?」と言うと、自分でしっかり確認してから使わなきゃ!で、どの番号なの!?!?!?みたいなかんじでものすっごい勢いで怒られたんだけど、とっさに荷物を出してしまって自分でもどの番号だかわからなくなってしまった。しかも壊れたロッカーだらけだったもので。「どの番号だか分かんなきゃ出せないのよ!ホラホラどれよ!?」と、ロッカーバンバン開けたり閉めたりしながら言われビビりまくる私。

言い返す度胸もないので「もういいです私のせいなんでごめんなさい」とそそくさとお金は諦めて出て行ったのだが、結局大きい荷物は預けなきゃいけないからもう一回そこに行かなきゃいけなかった(笑)どうしてもロッカーの使い方分からないし壊れたロッカーばっかりだし、私に怒った人にもう一度「どうやってこのロッカー使うんですか、、、、、?」とショボショボしぶしぶ聞いたら、「ほらさっきのお金!はい!」って渡してくれました。何だ物凄く優しい、、?私のほうが申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。


苦情や文句を言うことよりも、しっかり自分の状況を伝えてお互いでどうするか決めるということが重要なのかもしれないと感じた。苦情という言い方は正しくないかもしれない。
次はしっかりロッカーが壊れていないかどうか確認しよう。いやでもあそこのロッカーの半分くらいは壊れていたように思えたが、、。



壊れたものも、決められたことも全て認めた上で使う者管理する者同士がお互いに問題を共有し合ったうえで話し合うことが大切なんだと感じたし、それは西欧に限らずどこだって一緒だと思う。ルールだってなんだって結局そうやって人が加わって常に臨機応変に使われていく。



決められた未来も、過去もない。ただそこに今の自分自身があるだけで、その自分自身も誰かに、何かに影響されながら常に移り変わっている。そんなことを感じた小さな旅だった。