2015年3月15日日曜日

飲みニケーション





ZAZEN BOYS - HARD LIQUOR





私は酒癖が悪い。



年に1、2回程はとんでもなく周りの人にお世話になっている(迷惑をかけている)。


飲むとすぐ酔ってしまって動けない、というタイプではなく、周りが飲んでいようといまいとひたすら飲みまくって騒ぐ。ここまでならいいんだろうけど、誰がどう見ても「これはやばいな」という状態まで行くことがたまにある。本当にどうしようもないくらい面倒くさいタイプだと思う。




まあ私の酒癖はともかく、お酒にまつわる経験から感じることはたくさんありまして。


全く飲まない人も、嗜む程度に飲む人も、浴びるように飲む人もいる。みんなそれぞれの楽しみかたがあっていいと思うんだけど、それぞれのタイプ同士で否定しあっているような気がしてならない。それが嫌でして。



ということで、まずは簡単な分類から。主に学生の飲み方で、科学的分析ではなく完全な経験則です。




レベル1:「ご飯を一緒に食べよう」感覚の飲み方

美味しいものの一つとしてお酒を捉える飲み方。今はファミレスでもカフェでもお酒のメニューがあって、飲みたい人は気軽に頼めるし、「ご飯一緒に食べる」の一部であり「酔う」という感覚ではない。誰とでも気軽にできるお酒の飲み方だし、飲みたくなければ飲まなくてもOK。




レベル2:「飲みに行こう」から始まる飲み方

お酒をきっかけにした交流方法。成人すると多くの人が使うセリフ。少人数2~5人くらいだと気軽に自分のペースで飲める。仲良くなりかけのタイミングで使われることが多い。場が緊張し合っている状態でもお酒で緩めることができるが、人数が多くなりすぎるとお互いの話をすることができずなあなあで終わってしまう場合も。しかし仲良くなってみたい、もっと知りたいという気持ちが前提にある。

(例:ゼミや授業メンバーでの飲み会)



レベル3:「飲み行こう!」で更に友情を深める飲み方

もともと仲の良い人同士でお酒を交わしながら話すことでリラックスした状態で話すことができる。ご飯だけではなく、お酒によって更に気持ちを緩めることによって普段だったら話さないような愚痴や夢などを語ることもあり日常と非日常の間のような時間。



レベル4:「飲むことが目的」の飲み方

会話はほぼなし。飲んで酔って騒ぐことが目的。普段の生活では見ることのできないような一面を見ることができるので、ほぼ非日常の世界。仲良くなる前であっても、ある一線を越えたお互いの姿を見ることで連帯感が生まれる。つまり、お酒によって共通経験を創り出すことによって独自の共通言語が生まれる。友人を自然につくることが苦手な性格であっても、このような飲み方に適応することによって交友関係をつくることができる。

(例:飲み会を主としたサークル(飲みサー))







学生同士であっても、飲み方で人の中身を決めつけてしまって交流が閉ざされてしまっていることもある(特にレベル4)。不器用な人も、おもしろい人も、普段とても真面目だからこそレべル4のように飲む人もいて、お酒を飲んでいない時でもみんな素敵な内面を持っていると思う。




私はまだ学生目線でしか飲み方を知らないので、会社に属した場合だからこその飲みにケーションやお酒との付き合い方がどのようなものなのかとても興味があるのです。


飲みニケーションといえば、日本社会の習慣として悪い面も指摘される。強制的に飲みにいかなきゃいけないのか、自分の時間や家族との時間に支障が出る。上下関係の延長、等々。



でもね、飲んでる状態じゃないとちょっとした本音を言えない人なんてたくさんいる。逆に、飲んでなくてもしっかり意見をまとめて言えて、お酒を使って仕事の話をする必要なんてない人だっている。
もしかしたら、今の日本社会は前者が、話すための口実として「飲むのも仕事のうち」といって強制的な飲み会にしてしまったのかもしれない。


飲まないと言えないことがあること自体、普段から嫌なことや本当は言いたいけど言いにくいことを常に周りと共有できないことが私は問題だと思う。だけど、中々この状態っていうのは変わっていけないとも思う。
だからこそお酒の場というのはうまく使っていく必要があるし、もっともっと多様化していけばいいんじゃないかな。




私は声を大にして言いたい!「あの人はすぐに飲みに行きたがる」とか、「あいつ全然飲まないから」、「飲み会に来るけど全然あいつ盛り上がらないよね」なんてお酒でお互いを区別するのはやめようじゃないか!
「飲む」とうい言葉が先行して、「この人と飲むの?」又は「お酒はいいや」と考えるのではなくて、何でその人がそう言ったのかちょっと想像してみるとその人のことを知るきっかけになるかもしれない。もっと好きになれるかもしれないじゃないか。





とは言え、人に迷惑をかけるような飲み方はしてはいけないと思ってるので、その反省の意を込めた本日のブログでした。


こんなこと言っているけど、やっぱりまたしてしまいそう。そんな時は、「ああ、こいつ安心してんだな」って暖かい目で見てやってください。そうなんです、安心しきって大好きな人と一緒にいるって時にしか泥酔しません。私なりの不器用な愛情表現です。




終わり。


2015年2月20日金曜日

正直な街






ベルリンに数日間行ってきた。

ベルリン大聖堂、いくら近くで見ても実物の建物なのか信じられないくらい、それ自体が絵画のような不思議な存在。

立派な建物も廃墟も、壁のグラフィティも工事過程も人も何もかもがそこにあって、本来の意味や正直な感情が全部「イケてる」感じで盛り込まれた街、それがベルリンなのかなって。
着いた初日からビシビシしびれる滞在だった。


それに、ベルリン滞在中に日本から来た大切な友達と会うことができて楽しくて仕方ない時間を過ごした。大切な人に会って楽しい、その感情をまた思い返すだけで今度は嬉しくなる。

嬉しいこと、楽しいこと、伝えたくてどうしようもないことが正直に溢れ出ている人になれてるかなって、ベルリンから帰ってきてからそんなことを思いながら書いています。



今は会って話すことができない日本にいる大切で大好きな人たちへ、伝わってますか?
こんなちょっと恥ずかしいような言葉も、今は堂々と言いたい。

そんなことを思いつつ留学も残り5カ月を切りました。はやい。





2015年2月2日月曜日

Smile. Tomorrow will be worse.


























ビールがあったら飲む。ワインがあったら飲む。ウイスキーがあったら飲む。日本酒があったら日本アピールして飲む。音を聞いたら動く。好きだったら好きって言う。
それがいまこの生きている瞬間だし、それが全て。



「笑いなって。明日はもっと悪い日だから。」
"Smile.Tomorrow will be worse. "
マーフィーの法則より



2015年1月13日火曜日

叫び






Otep / Warhead


人はどうして叫ぶのだろう。何のために叫ぶのだろう。


アイドルを見た時の黄色い声や地鳴りのような声、あれきっと出ちゃうんだよね。
デスヴォイスで叫ぶヴォーカル、叫んで言葉以上に伝えようとしている。
酔っぱらって声がどんどん大きくなって終いには、素で何かを言いたくなって声を出し切っている。
ライブで曲が始まったり終わる瞬間、もう、これも出ちゃうんだろうね。
デモ行進するときの声、主張をすればするほど大きくなる。
何かを決意した時、自分の終わりを知ったとき、叫んで感情を出し切ってから行動したり。




人間の一番見えないところを聞いているみたいで、聞いているだけで震える。


きっとみんな普段の生活では出さない、出す必要もないし、出しても変な目でみられてしまう。

逆に叫ぶとき、それは普段の生活ではないし、出す必要があって、変な目で見られても構わない時。




もっと、叫んでもいい、叫んだら誰かがあたたかい目で振り向いてくれるような世界だったらどうだろう。そうすれば誰も叫ぶほど苦しくなったり、喜びも悲しみも感情を叫び、そこにだけに押し込まなくてもいいのに。


叫ぶ時には準備なんて誰もしていない、もうどうしもようもなくなって叫んでいる。
もっと柔らかく暖かく普段から、叫びと同じくらいの感情を出せる世界はどんなところだろう。
そこは全然冷たい世界じゃない気がする。


画面越しにいる人ではなくて、もっと近くの人に普段から好きと言えていたなら。
口ずさんだ曲を隣にいる人も歌ってくれたなら。
素敵な音楽を聴いたときにその気持ちを聞いてくれる人が、
ちょっとした冗談でも悩みでも、笑って聞いてくれるひとが、
社会の中でおかしいと思ったことを、一緒に考えてくれる人が、
傷付いて辛くてどうしようもない時に話しをきいてくれる人が、傍にいたなら。




本当はもっと、もっと時代の中の人の感情は軽くて柔らかくて、構造なんて後からついてきたもの。

なのに、構造に押し込まれて感情が極限まで達しないと出せないなんて、なんて冷たい世界だろう。その叫びの間に何があったのか見ようとしないなんて、なんて想像力のない世界だろう。


2015年1月8日木曜日

怒りの矛先



http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150108/k10014527301000.html


「仏全体への攻撃だ」


そう言えるのかもしれない。フランスが大切にする民主主義や自由表現への対抗と言えるのかもしれない。

しかし、その攻撃の抗議としての対象が、フランスやヨーロッパに住むイスラム教の人達にならないように願う。



極右政党フランス国民戦線は、テロリストや殺人犯に対する死刑の復活を求める他、移民の排斥を主な主張している。フランスに限ったことではないが、このような極右政党は西欧で力を伸ばしていて、オランダ・スウェーデン・スイス・イタリアでは国内、欧州議会で議席を伸ばしている。


昨日今日でフランス国内で市民のデモが盛んに行われているようだが、一時的な熱のように可視化されなくとも、今後選挙における国民の極右政党への支持は水面下で伸びていく可能性は上がっていくかもしれない。


テロリストとイスラム系移民は直接的に結び付けて認識されるべきものではない。


#JeSuisCharlie このハッシュタグでtwitterを見ていると、様々な呟きが次から次へと流れてくる。

「表現の自由を支持する」「こんな風刺画を描くべきではない」


そして




「この事件について謝りたい。なぜなら私はイスラム教だから」


これだけに限らず、#NotInMyName のハッシュタグを付け、イスラム教の名のもとで今回のテロを批判する声がたくさんあがっている。

2週間前に私が訪れたあの大好きな場所パリに想いを寄せながらも、私は何もできないことを知ったし、今、パリに、そして西欧、世界に生きるイスラム教の人々が恨まれ排斥されないように。そしてその感情がまたどこかで誰かを苦しめないように。そう願っている。



今何もできない自分を悲観せず、するべき時に冷静に行動できる人間になりたいと思う。



2015年1月1日木曜日

工事中









ドイツ、デュッセンドルフ。


ここは、国際的な商業の中心でもあり街を歩いているとオフィスがたくさん並んでいる。しかし住宅街や旧市街、自然、川もたくさんあり東京23区をぎゅっと小さくしたような街のように見える。そして現代美術で著名な街。ヨーゼフボイスの出身校でもある国際芸術アカデミーもある。

現代芸術に焦点をあてた美術館がたくさんあった。インスタレーションを中心として、その場所にその時に行かなければ感じることのできないような表現をたくさん感じることができた。




デュッセンドルフ街中はたくさんの工事中の過程が見えた。
日本では年末に公共事業としての工事が増えるなんて噂もあるけれど、デュッセンドルフがどうなのかは分からない。むしろ工事中のものが年末休暇で止まっているようだった。


ゆっくりすぎて見えなくても、建物も人もこの世にあるものはみな変化している。完成したと誰かが言っても、その瞬間から新しい空気にさらされ、いくつもの季節を、時代を過ごしていく。工事中の建物は、見えないその変化をよく気づかせてくれる。現代美術のインスタレーションのように、アーティストの手を離れ展示された瞬間から、人が訪れる瞬間ごとに変わっていくことを予め認めたような表現が好きだ。




完璧なんていうものは芸術にも、人の人生にも、客観的に見たらどんなものにも存在しない。人の気持ちの中で完璧だと思ったものだけが完璧であり、そう思わなくなったらもうその気持ちの中にも完璧は存在しない。





西欧でいう「苦情をしっかりいう」ことが重要。と、本当にそうなのかとずっと疑問を持ちながら過ごしていた。ちょっとしたことで自分から謝って、引き下がってはいけないと。


美術館の中で荷物を預けようとしたら壊れたロッカーにお金を入れてしまい、「このロッカー使えないんですけど、お金返ってきます?」と言うと、自分でしっかり確認してから使わなきゃ!で、どの番号なの!?!?!?みたいなかんじでものすっごい勢いで怒られたんだけど、とっさに荷物を出してしまって自分でもどの番号だかわからなくなってしまった。しかも壊れたロッカーだらけだったもので。「どの番号だか分かんなきゃ出せないのよ!ホラホラどれよ!?」と、ロッカーバンバン開けたり閉めたりしながら言われビビりまくる私。

言い返す度胸もないので「もういいです私のせいなんでごめんなさい」とそそくさとお金は諦めて出て行ったのだが、結局大きい荷物は預けなきゃいけないからもう一回そこに行かなきゃいけなかった(笑)どうしてもロッカーの使い方分からないし壊れたロッカーばっかりだし、私に怒った人にもう一度「どうやってこのロッカー使うんですか、、、、、?」とショボショボしぶしぶ聞いたら、「ほらさっきのお金!はい!」って渡してくれました。何だ物凄く優しい、、?私のほうが申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。


苦情や文句を言うことよりも、しっかり自分の状況を伝えてお互いでどうするか決めるということが重要なのかもしれないと感じた。苦情という言い方は正しくないかもしれない。
次はしっかりロッカーが壊れていないかどうか確認しよう。いやでもあそこのロッカーの半分くらいは壊れていたように思えたが、、。



壊れたものも、決められたことも全て認めた上で使う者管理する者同士がお互いに問題を共有し合ったうえで話し合うことが大切なんだと感じたし、それは西欧に限らずどこだって一緒だと思う。ルールだってなんだって結局そうやって人が加わって常に臨機応変に使われていく。



決められた未来も、過去もない。ただそこに今の自分自身があるだけで、その自分自身も誰かに、何かに影響されながら常に移り変わっている。そんなことを感じた小さな旅だった。



2014年12月26日金曜日

パリは、美しいもので溢れている






お金がなくとも、美しいものに触れる機会はあるようだ。


パリに行ってきた。その際にオペラ・バスティーユにてプッチーニ作曲のオペラ「ラ・ボエーム(La Boheme)」を鑑賞した。オペラ・バスティーユでは会場オープン2、3時間前に並んでいれば5ユーロで4階の立ち見席のチケットを手に入れられる。ステージの全体を見ることはできないような位置ではあるが。

ちなみに、パリでは18歳未満・EU圏内の住民権を持つ25歳以下・失業者等のある条件を満たしている場合に入場料が無料という美術館は珍しくない。あのルーブル美術館もそうだ。




この日、私の中でオペラのイメージは変わった。与える側は相当な努力と表現へのこだわり、熱を持って空間を創っているのであり、受ける側もそれと同じだけ外見やそれ相応の富を持っていなければならないと思っていた。しかし私は5ユーロを払い、ジーンズにTシャツ姿で予約なしであの空間にいた。ステージの正面から見る人達とは全く異なる斜め上から、ステージを軽く見下ろしつつあの空間を感じた。


着飾ることや社会的地位を求める人も、そんなものには興味のない人も、誰しもが同じようにそれぞれの人生を持っている。それぞれが熱を注ぐ場所が違うだけ。


地位を大切にする人はそれらに価値を見出し、それ自体が自分や自分にとって大切なものを守る方法だと感じているのかもしれない。それらはどうでもいいと思う人達だって、自分のいる場所に誇りをもって生きて、そして大切なものを守ることができる。


私は裕福な人を差別していたのかもしれない。社会的弱者が差別されないようにと思っていただけなはずなのに、いつの間にか富を持つ人をただ批判したり軽視するようになっていたのかもしれない。
本質的な問題やその原因を見るべきなのに、いつの間にか私もたくさんの人を差別していたかもしれない。



あのオペラ座の中では、どんな席でも、何をまとっていても、全ての人が同じ空間の中で音を感じていた。そこには何の差もなかった。たとえ見えなくても聞こえ、感じていた。

与える側が開こうと思えば、芸術は誰しもに届くのかもしれない。






それに、パリは美しいもので溢れていた。

街並みや文化遺産の輝きは、国や人々に愛されているからこそ滲み出ていて、洗練されているように感じた。それらの周りには一時限りの観光客が集まる。私もそうだ。そして、その輝きと訪れる人々の周りは常に富に包まれており、その富の周りには物乞いやスリ、持たざるものたちが集まる。

輝かしいものが密集すればするほど、その対照となるものも同じだけ密集していく。



私はあのパリの地下鉄の、輝く街並みの下の雰囲気が気に入った。
トレンドをまとう人もいれば、観光のためか動きやすくラフな服でキョロキョロ移動する人、駅のホームでダンボールを敷いてすやすや眠っている人、お金を求める人、楽器を弾く人、そして地下鉄内の壁に描かれた大量のグラフィティ。
パリは、輝かしさ、対局としての汚さ、そしてその中間、パッと見るとそう区別できるのだろうが、それぞれが様々な色をまとって、誰もマジョリティではない、誰もマイノリティではない、住んでいようが、ただ訪れるだけであろうが、物質的なものを持っていようがいまいが、誰しもが独りの、一人の、人間だった。


そこでは何も輝いていない。何も汚くない。ただ、人生をまとう姿が、それらの全てが美しかったように思う。